講師対談
第4回 《校訂本・注釈書と本教室設立の目的》
泰田:前回、イギリスやアメリカの出版社から校訂本が出されているとのお話がありましたが、他の国々でもこういったことは行われているのでしょうか。日本の状況はどうなっているのでしょう。
安西:OCTやLoebの他には、フランスのBudé叢書やドイツのTeubner叢書がよく知られていますね。日本では残念ながら、校訂本の出版ということは未だ行われていません。そこで、25年ほど前に、私が何人かの知り合いを誘って、校訂本文と、その本文をめぐる注記を柱とする、校訂注釈本を作成することを目標とする団体を立ち上げました。文献学的な(Philological)議論や作業を行うことを趣旨とするので、「フィロロギカ」と命名しました。私は北大を退職し、フィロロギカの活動からも退きましたが、今でも研究集会の開催や雑誌の刊行は続いています。「日本で校訂本を出す」という立ち上げ当初の目標が、いつの日か達成されるよう私も願っています。
泰田:私が北大の先生の研究室に入ったころ、先生がよくそのようなお話をされていたことを覚えています。あれから四半世紀が経ち、またこうして先生と文献学にまつわるお話ができるとは、感慨深いものがあります。
ところで、校訂本に加え注釈書も出版したい、とのお話でしたね。注釈書、いわゆるコメンタリーですが、授業で使うのは確かに欧米の言語で書かれたものばかりです。日本語のコメンタリーは見かけたことがありませんね。
安西:その第一号を出版するべく、この瀬戸内古典語教室は生まれたのです。本文を熟読し、その内容について深く議論することなくして、注釈書は書けません。皆さんとの授業をつうじて、いわば素材集めをしているわけです。日本語で書く、ということにも大きな意味を見出しています。何語を用いて古典語を勉強し、その成果を発表するのか。これは避けて通れない問題です。日本語を用いると、読者や聴衆はかなり限られます。ですが、日本人を相手に、漢学や儒学の代わりとなる「教養」としての古典学を学ぶ上では、日本語を使うことに大きな意味があるでしょう。古典学は、いわば「ドル」のようなものです。世界の通貨は「ドル」を基準に動いている。しかも、古典学は、ヨーロッパやアメリカのみならず、東アジアの各国との共通通貨としても使えるのです。中国・韓国・台湾などでも古典学が広まってきていますからね。「西洋」古典学をあえて漢学や儒学に例えた意味が、わかっていただけたでしょうか。
泰田:先生にとってこの瀬戸内古典語教室は、「日本語で行う、必ずしも日本に固有の素材を対象としない教養教育」の場なのですね。とても意義深い活動のように感じます。
安西:この教室での活動が持つ意義については、正直に申し上げて、いろいろと議論を重ねていかないと見えてこないように思います。あえてやや挑戦的な言い方をすれば、古典を学習する「義務」や「必要」はまったくありません。ですが、受講生の皆さんは、途方もない時間や労力を費やしながら一生懸命に勉強をされていますし、教室を始めて以来、受講生が途絶えたこともありません。それはきっと、皆さんのおひとりおひとりが、ご自身にとって重要な意義を見出されているからなのでしょう。こうした場所は、今後とも残していかなければなりませんね。
泰田:教室ができた背景や古典語教育に関する先生のお考えを、改めてうかがえてよかったです。今回もどうもありがとうございました。
(2026年4月)