講師対談


第3回 《古典作品が私たちのもとに届くまで》

 
泰田:第2回の終わりに、「古典を読むとき、私たちはそもそも何を読んでいるのか」という問いが生まれました。前回から少し間があいてしまいましたが、今回はこのことについて考えてみたいと思います。ホメロスの詩句を吟じたり、キケローの弁論を読んだりするとき、私たちが実際に読んでいるものは一体何なのでしょうか。 
 
安西:いわゆる「古典作品」というものは、多くが「写本」という形で現代の私たちのところに伝わってきています。それらは当然手書きであり、古いものでおよそ紀元前1世紀頃から紀元後2、3世紀のパピルスに遡ります。それより新しいもの、「中世写本」と呼ばれるようなものは、古くて10世紀頃、それ以降15世紀くらいまでの間に書き写されたものです。 
 
泰田:となると、私たちが読んでいる「古典」は、キケローら作者本人が著したものではない、ということになりますね。 
 
安西:そのとおりです。「古典」の作者自らが書き記したであろうものと、私たちが今日、直接目にすることのできる写本との間には、およそ1500年程度のひらきがあります。その間も、プトレマイオス朝エジプトのアレクサンドリアやビザンツ帝国など、時代ごとに様々な国や地域が主体となって写本を作り、古典の伝統を引き継いできました。その過程で何か一つの要素でも欠けてしまっていたら、私たちが読んでいる「古典」は存在し得なかったわけです。 
 
泰田:ギリシアやローマの古典は、広くギリシア・ローマの影響下にあった地域で受け継がれていったのですね。では、そうした「写本」は、どのようにして私たちが実際に読む「本」になっていくのでしょうか。例えばキケローの作品の和訳を文庫本で出版しようというとき、実際に中世写本を見ながらラテン語を訳していく、といった作業をするのでしょうか。 
 
安西:写本と、私たちが実際に書店で手に取る本との間には、「校訂本」が存在します。授業でも使用することの多い、イギリスのOCT (Oxford Classical Text)やアメリカのLoeb叢書などのことです。これらは通称「テクスト」とも呼ばれ、古典学者たちが複数の写本をつき合わせながら作成するものです。一つの古典作品を複数の写本が伝えている場合、写本間で内容に相違があるだろうことは容易に想像できますね。その中でどの写本が伝える「読み」を選ぶのか、そしてその選択をどう正当化するのか。それを一言一句にわたって行います。こうした途方もない校訂作業を経て、ようやく校訂本が生まれます。私たちが読む和訳などは、この校訂本から訳されていることがほとんどです。
 
 
泰田:読者のもとに古典を届けるには、とてつもない時間と労力がかかるのですね。先生、今日はどうもありがとうございました。また次回、この続きを楽しみにしております。



(2025年10月)