講師エッセイ

第1回 《2冊の古代ギリシア案内》




  以下に掲載する紹介文は、安西眞が日本西洋古典学会HP運営委員会から委嘱を受け執筆し、同HPに発表されたものです。委嘱の主旨は、自分は西洋古典学という学問を始めようとしているが、そういう人間にとって有益と思われる基礎的ないしは入門書を紹介・解説してほしいという依頼がHP運営委員会にもたらされたため、それに答えた文を草してほしいというものでした。2つの優れた書物の内容は、以下の内容から明らかなように、西洋古典学研究というよりむしろ少し狭くギリシア古典研究を始めようとする者にとって有益な、と言い換えるべきものです。それは書き手のやむを得ない判断でそうなりました。そのことを、以下の紹介文を読む際に了解してくださるようお願いいたします。


  もう一つ序文がわりに申し上げたいことがあります。アテーナイ賛美です。古代ギリシア人はアルファベットを発明し、それを使って文字化された法を創出し、民主主義的な諸ポリスを建国し、それに則した民主主義的な議会制度を開始し、陪審裁判所を創設し、そしてアテーナイを頂点とするこうした高度に発達した社会的集団を現出しました。また、そこに生きる知性に、生命を賭して、見ること、学ぶことを、そして悩み、決断することを強いました。その知性群の格闘がギリシア古典の総体であります。その格闘の大切な場面のほとんどが、ギリシア古典として私たちの目前にあります。それを再発見した者たちが、ルネサンスという一つの時代を創り出し、ヨーロッパという一つの歴史を共有する諸国家群を現出したのです。そして、このヨーロッパという知的運動は、何度も「死・没落」に怯えながら、人類の知性の歴史の中の稀有な現象としての輝きを今もまだ有しています。そして、このヨーロッパは、ギリシア古典が有した力のせいで現在もなかなかのものであり続けている、と言って良いと私は思います。我々日本語民族が、そのギリシアで起きたことに本格的に触れ始めたのは、明治維新後のことです。ですが、ことは人類の知性の中で起きたことであって、我々日本語民族も古の諸事件に関与することに遠慮がちになることはありません。血のつながりがないが故に、より鮮明に事態が見えるということもありうる、と私は信じています。


古代ギリシアの世界、とりわけ叙事詩の世界についての適切な入門書:

M. I. Finley. The World of Odysseus. New York, 1954.(いくつかの言語による、いくつかの出版社が出した版がありますが、下田立行訳『オデュッセウスの世界』岩波文庫 1994 が最も手軽に読めます。)
       

  原本が成立したのは20世紀半ば過ぎのことですが、著者は、20世紀後半以降のホメーロス研究を席巻した、ホメーロスとはすなわち口承詩伝承(アイヌ語によるユーカリとほぼ同じ原理の上に立つ詩、前10世紀〜前8世紀に伝承がなされたと想定されています)の総体に付された名称に他ならないという学問上の潮流を十分に承知し、その基本線を守った上で、ホメーロスの二つの叙事詩は、前10世紀〜前8世紀のギリシア人社会(文明史的には部族社会)を背景にした作品世界に他ならないことを、私たちに示そうとしてくれています。
 この簡単な歴史的位置付けからも理解できるように、古代ギリシアの叙事詩は、文明史的に言って、広くは歴史的に言って、過渡期にある芸術が、熱気を帯び、高く飛翔する典型なのですが、一言私からのコメントを付するとすれば、欧米の古典文学研究者たちは、ヨーロッパの曙に登場する英雄たちが、部族社会人を背景にした、つまりは、野蛮人に他ならない、という明らかな事実を受け入れられないという、我々日本人の古典学者から見れば知的な怠惰という他ない理由で、彼の70年以上前の優れた仕事を十分にはこなしきれていない、と見えます。


もう一つの適切なギリシア人の世界への入門書:

E. R. Dodds. The Greeks and the Irrational. Berkeley, California, 1949.(岩田靖夫,水野一訳『ギリシァ人と非理性』みすず書房1972)

    上に記した書誌情報だけで、この本の背景がほぼ分かるでしょう。第二次大戦で、ヨーロッパの全域と、日本が壊滅的打撃を受けました。そして、ヨーロッパの精神的主柱であった古典学も同じ目に遭いました。綺麗事を言うと、合衆国は、その事態に責任を感じて、多くの、主としてヨーロッパの大学と研究者に対する莫大な経済的援助を行い、同時に、まだ発展途上の状態にあった合衆国の大学の古典学研究の向上に向けて投資を行いました。その一環として、カリフォルニア大学バークレー校が高名な英国人古典学者を招聘し、集中講義をお願いし、その草稿をそのまま出版しました。これがこの本の成立事情です。

  その鍵として、一方に理性的な社会、つまりは、法による裁きと、法に基づいた選挙と、法による統治を原理とする近代ヨーロッパ社会=アテーナイの法社会と、そのほぼ全面的な崩壊という現実の光景があり、もう一方に、その理性的社会が押し潰した(とても残念な表現ですが,歴史を考えればそういう他ありません)、「恥の文化」を支柱にした部族社会があります。上記Finleyの描く、ホメーロス叙事詩の背景となった前10〜前8世紀の世界には、確実に生きていたはずの原理です。その原理は、アキレウスの中には明らかに生きており、ヘクトールの中にも生きていた、とホメーロスには歌われています。プラトーンの中にも生きていた、と私は個人的には思いますが (例えば『国家編』に見られる「哲人王」という概念の中に)、アテーナイでポリス社会が理想的な調和に達した段階では、現実的には死んでいたとプラトーンも考えていたことは間違いなく、Dodds先生もこの本の前半で繰り返しそう記しています。そして確実に見えることは、Dodds先生は、ヨーロッパとその古典学の廃墟を前にして、身の回りに、そしてこの本の元になった原稿を読み上げた当の学生たちの中に、「恥の文化」を体現しているような人物を持たなかったろうということと、もう一方で、この著作が、私たち21世紀に生きる日本人は、あるいは日本人古典学者はどうなんだろうかと、深く巨大な問いを投げかけてくれるということです。

  ぜひご一読ください。ギリシアを読むということの巨大な意味が理解できると信じます。


(2026年2月)